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ウィフレド・ラム

 投稿者:谷 昌親  投稿日:2011年 8月 4日(木)10時48分17秒
返信・引用
   飯塚君、発表お疲れさまでした。大変遅くなりましたが、感想など書いておきます。
 ウィフレド・ラムはあまり有名な画家でなく、資料もかぎられているので調べるのが大変だったかもしれませんが、よくまとまっていたと思います。発表全体のバランスで言うと、聴いている人たちにまずはラムのことを知ってもらわなければならないので、「時代区分」の部分が長くなるのもわかるのですが、この部分をもう少しさらりとやって、作品の特徴などに関すしては、最後の「考察」に盛り込むという手もあったかもしれません。そのほうが、ただ調べただけでなく、飯塚君なりの考えでまとめたラム論というかたちになったでしょう。もちろんこれは、実際にやるのはなかなか大変なことですが……。それと、教室でも言ったように、考察のあとに、もう一度全体をまとめる結論の部分があったほうがいいと思います。そうしたものがあるのとないのとでは、発表に対する印象がだいぶ変わってくると思います。
 いずれにせよ、このウィフレド・ラムという人は非常に興味深い画家だとぼくは思っていて、それで発表の候補のなかに入れておいたのですが、飯塚君が彼を発表の対象として選んでくれて、よかったと思います。

 これで今年の発表も終わったわけですが、発表全体についての感想などは、レポートも読んでから、あらためて書くつもりです。皆さん、よい夏休みを。
 
 

チャップリン

 投稿者:谷 昌親  投稿日:2011年 7月26日(火)11時53分46秒
返信・引用
   高橋さん、発表お疲れさまでした。チャップリンについてまとめるのは、いろいろな意味で大変だったと思いますが、発表全体としては、テーマが絞られ、流れもあり、よかったと思います。
 ただ、教室でも言いましたが、せっかく最初のほうで「笑い」についての説明があったのに、それが後半ではあまり活かされていなかったのが残念でした。それとも関係するのですが、高橋さんだけの話ではなく、どうも一般的な傾向として、チャップリンのヒューマニズムが強調されがちですね。それもたしかにチャップリンの大切な一面ではありますが、同時に、それこそ「笑い」に現れているように、彼には「反抗精神」があったということも忘れてはいけない気がします。『モダンタイムズ』にも見られるように、人間を抑圧する社会機構を批判するという「反抗精神」ももちろんあったわけですが、さらに言えば、一般的な意味での「善」を揶揄するような、もっと複雑な「反抗精神」もあり、それが彼独特の「笑い」につながっていったように思います。そうでなければ、『街の灯』で花売りの娘に親切にする主人公を放浪者にはしなかったでしょう。

 シュルレアリスムが批判したのも、ごく簡単に言えば、一元化された世界観です。ヒューマニズムを追い求めたはずの西洋社会が、世界大戦という大量殺戮を招いてしまった以上、単純なヒューマニズムではもはや事足りない。だからこそ、夢や狂気といった、それまで否定的にしか扱われなかった人間の側面に注目したのだと思います。こうした問題意識は、当時だけでなく、いまでも重要なのではないでしょうか。授業もあと1回ですが、そうしたことについてさらに考えていければと思います。
 

フランジュ&ブニュエル

 投稿者:谷 昌親  投稿日:2011年 7月18日(月)17時09分50秒
返信・引用
   本橋さん、郡司君、発表お疲れさまでした。例によって、感想めいたことを書いておきます。

 まず、本橋さんの「ジョルジュ・フランジュ――詩と幻想」について。フランジュは日本ではほとんど知られていない映画監督で、いまソフトで発売されているのも『顔のない眼』だけという状況で、当然資料もないなかで、よくいろいろ調べ、考えてきてくれたと思います。
 いつも映画を対象にした発表について言っていることですが、映画作品で厳密にシュルレアリスムと言えるものはあまり存在しないので、無理にシュルレアリスムに関連づけないほうがいいと思います。フランジュも、当然、シュルレアリストではありません。しかし、フランジュ自身がシュルレアリスムに関心を持っていた可能性はあるし、それ以上に、シュルレアリスムの側から見て、フランジュの映画には共感を抱かせるものがあったと思います。それは、フランジュが二項対立的に世界を見ようとしていないからです。彼の言うレアリスムは、発表でも紹介されたとおり、「すべての詩的なものは現実のなかにある」という意味でのレアレリスムであり、矛盾した側面の共存によってこそ成り立ち、だからこそ、ぼくらが普通に現実と信じているものとは別の現実へと向かう可能性を秘めている。そうした点で、シュルレアリスムそのものではないにしても、シュルレアリストからの共感を得られる作品になっているはずです。
 シュルレアリスムの定義やどの作家や作品がシュルレアリスムなのかといったことを細かく考えすぎると、重箱の隅をつつくようなことになり、収拾がつかなくなる恐れがあります。それよりも、シュルレアリスム的な考え方を基盤にすると、どういった新しい世界の見え方がしてくるのか、といったことに注目し、そのいろいろな例を見ていくほうが、より広がりが生じると思います。

 次に、郡司君の「ルイス・ブニュエル」について。ブニュエルは、シュレアリストと認められた数少ない映画監督のひとりです。映画にシュルレアリスムと呼べる作品があまり多くないのは、サイレントが終わってトーキーの時代になるにともない、一般的な意味でのリアリズムに走る作品がふえたこと、そして、映画製作にはどうしてもお金がかかるため、商業主義とは無縁でいられず、それがシュルレアリスム的な倫理感と相容れなかったことなど、理由はいろいろあるかと思いますが、そのなかでブニュエルがシュルレアリストでいられたのは、彼の交友関係の影響もあるものの、その資質がやはり大きく作用していると言えるでしょう。そうしたブニュエルのシュルレアリスム的な側面について、初期の『黄金時代』を中心にまとめてくれて、映画におけるシュルレアリスムについて考えるためにヒントをいろいろ提供してくれたと思います。
 ただ、夢の要素を重視してくれたのはいいのですが、反キリスト教、反愛国、反人道、狂気の愛といった点もせっかく挙げたのですから、そのあたりについての掘り下げがもう少しあってもよかった気がしますし、そうすれば、シュルレアリスムとの関係もさらに詳しく考えることができたかもしれません。

 それにしても、たしかにシュルレアリスムについて考えるのはむずかしい、と言えるかもしれません。それは、シュルレアリスムの求めたものが、簡単に言葉で説明できないものでもあったからでしょう。そうした説明のつかないものについて考えるのは、なにかもどかしい作業でもあるのですが、だからこそ考えつづける必要があります。いくら考えても、目的地はなかなか見えてこないのですが、目的地に向けて走りつづけるうちに、いつのまにか目の前の風景が違って見えてくる。そうした風景に敏感になることが大事だと思うのです。
 

ダリ&タンギー

 投稿者:谷 昌親  投稿日:2011年 7月13日(水)10時47分39秒
返信・引用
   小川君、吉田君、発表お疲れさまでした。大変遅くなりましたが、感想めいたことを書いておきましょう。

 まず、小川君の「ダリと夢とリアリティー」について。ダリに関して、特にその「二重影像(ダブルイメージ)」について詳しく調べ、しかも作品に即しての細かい説明だったので、非常に興味深く、またわかりやすい発表でした。偏執教的批判的方法はダリのシュルレアリスム時代を特徴づけるもので、その根幹をなすのがダブルイメージですが、それといわゆるだまし絵との違いを分析してくれることで、ダリの特徴が浮き彫りになりました。
 また、ダブルイメージを、だまし絵的なものだけでなく、二つのもの(たとえば「かがみこむ人」と「卵を持つ手」)の関係としてとらえなおすという分析も非常に刺激的でした。ただ、この場合、こうした発想が先行研究にあるのか、小川君の独創なのか、また、これを「ダブルイメージ」と呼べる根拠があるのか、などといった点について明確にする必要はあると思います。
 それから、最後の「ビキニの3つのスフィンクス」の分析もおもしろかったのですが、小川君の「個人的解釈」の根拠をもう少し示す必要があるかもしれませんね。仮定をたてるのはかまわないし、むしろ望ましいことですが、そうした仮定が出てくる理由をやはり言ってもらいたい気がします。諸橋近代美術館の学芸員の解釈は参考までということでしたが、3本の木が広島、長崎、ビキニを指しているのであれば、小川君の解釈ほどではないにしても、ここにも時間の観念が入ってはいます(この場合は、「未来」はないわけですが)。ですから、小川君の解釈とまったく無縁ということでもなさそうです。それが小川説に発展するのは、「スフィンクスが3つとも向う側を見ている」ことと、「Bの木の幹が空洞になっている」ことがきっかけのようで、それはそれでわからなくもないのですが、もう少し補足が必要な気がします。
 全体的には非常によくまとまっていましたが、この種の分析をすると、なんだかそれで理解できたような気になってしまいがちです。それぞれの解釈はおもしろいし、妥当性もあると思いますが、あくまでひとつの仮定であることもわきまえておく必要があるでしょう。そうした仮定に立つと、ダリについて新たにどういうことがわかってくるのか、その部分を忘れてはいけないと思います。

 次に吉田君の「イヴ・タンギーの絵画――知ることのできない物体」について。レジュメ(配布資料)がなかったのは残念でしたが、これも非常に充実した発表でした。タンギーについてよく調べ、しかも実際に作品に即して考えてくれていました。具象と抽象の問題からタンギーに迫ってくれていましたが、これは彼の絵画について考えるときに重要なスタンスのひとつですし、タンギーにかぎらず、シュルレアリスム絵画を論じる際によく取り上げられる論点のひとつでもあります。そういった意味では非常に重要な指摘をしてくれたと思います。
 シュルレアリスム絵画は一般には具象だとされ、たしかにそうなのですが、かといって一般の具象絵画とも異なります。また、マッソン、ミロ、タンギーなどには抽象絵画の側面がありますが、それも純粋な抽象絵画と異なります。こうしたカテゴライズのしにくさが、ある意味でシュルレアリスム絵画の特性と言えるかもしれません。
 そのような点からも興味深い発表でしたし、タンギーの絵画を「シニフィエのない記号」とした結論も的確ですが、こうした結論を出すことで、ある意味では、カテゴライズできない絵画をあえてカテゴライズした面もあります。もちろん、結論を出すとなると、ある程度はカテゴライズせざるをえないし、それは必要でもあるのですが、カテゴライズすることで作品の具体的な細部が捨象されるおそれがあります。「知ることのできない物体」についていろいろ考えた発表は、結局、そうした物体を「シニフィエのない記号」と言い換えて終わったというふうに見えかねません(これはかなり意地の悪い見方ではありますが)。結論は「シニフィエのない記号」でいいとは思うのですが、もう少し作品に即した考察(それも1つの作品だけでなく、複数の作品についての考察)やタンギーの作家性に関係した部分を入れてもらえると、発表全体にふくらみが出て、抽象的な議論ではなく、具体的な考察だという印象が増したかもしれません。
 

ミロ&ヴィゴ

 投稿者:谷 昌親  投稿日:2011年 7月 6日(水)10時53分59秒
返信・引用
   加藤さん、松井君と三瓶さん、発表お疲れさまでした。今回は2つめの発表のあとに質疑応答の時間がとれなかったので、その分を掲示板でできないかと思いましたが、やはりなかなか書き込みはないようですので、ぼくのほうで簡単に書いておきます。

 まず、加藤さんの「ジョアン・ミロ」について。ミロについて詳しく調べてくれて、おそらく、この画家のことをあまり知らない人も、ある程度知っている人も、いろいろなことを学び、理解を深めることができる発表だったと思います。ただ、盛りだくさんの分、焦点がややぼやけてしまった感じがあります。ミロについての全般的な説明とは別に、なにかここが一番気になるといった部分についてもう少し詳しく説明し、そこから結論に持っていく、というような流れができると、もっとすっきりしたかもしれません。
 たとえばですが、「時間をかけた絵画」と「衝動的絵画」という話がありましたが、この一見すると矛盾するように思える二つがどのようにミロのなかで共存していたのか、といった問題をもっと掘り下げてみる、といった方向性もありえたように思います。そうすれば、もしかすると、彼の実人生と絵画作品のあいだのギャップのようものについて考えるヒントにもなったかもしれません。
 いずれにせよ、加藤さんの場合にかぎらず、発表というかたてでとりあえず1回で完結する話をする場合には、なにかポイントを明確にしたほうが、聴いている方にとってはわかりやすいですし、印象にも残ります。そのためには、たとえば自分の発表にタイトル(作家名や作品名だけでない、テーマに関係するタイトル)をつけてみるのも手です。そうすると、自分が何に興味があるのかはっきりしてくるでしょう。

 次に、松井君と三瓶さんの「ジャン・ヴィゴ――詩的リアリズム」について。ジャン・ヴィゴは、たぶんあまり知られていない監督だと思いますので、そのヴィゴに関して詳しく説明してくれ、また映画史のなかにおける位置づけなどもしてくれた発表でした。副題に「詩的リアリズム」とあるように、これを一種のキーワードにして話が進むので、全体の流れやポイントもわかりやすくなっていたと思います。
 最初に思っていたほど時間がなく、発表そのものもやや急ぎ足になり、質疑応答もできなかったのは気の毒でしたが、やはり全体的には少し盛り込みすぎで、多少整理してもよかったでしょう。それと、最後にシュルレアリスムとの比較がありましたが、こうした比較をすると、ヴィゴの映画はシュルレアリスムなのかどうか、といった話になり、そうなると、結論としては、ヴィゴの映画はやはりシュルレアリスムでないという方向性に行くのが一般的な考え方だと思うので、むしろ、シュルレアリスムそのものではないが、シュレアリストたちが興味を持ったのはどういった部分か、といった提示の仕方にすれば、発表内容そのものはほぼ同じでも、結論に無理がなくなると思います。
 最後に、いくつか映画史に関係する誤りを指摘しておきます。『大人は判ってくれない』(「わかってくれない」ではありません)の監督の名前はフランソワ・トリュフォーです。彼にもミドル・ネームがあったかもしれませんが、ミドル・ネームをつけた表記はいままで見た記憶がありません。
 それから、ヌーヴェル・ヴァーグはシナリオ重視ではなく、むしろ、シナリオ作家の優位を否定し、演出重視に転じた運動です。また、ヌーヴェル・ヴァーグは「良質の伝統」そのものを否定することで、新しい映画の可能性をめざしていました。
 さらに、ジャン・ヴィゴ=詩的リアリズムとするのは、映画史的に言うと、やや問題があります。少なくとも、映画史における「詩的リアリズム」とヴィゴは完全には一致せず、だからこそ、ヌーヴェル・ヴァーグはヴィゴを評価したのです。ヴィゴは詩的リアリズムと同時代でしたが、主にセットで撮影され、洗練されたセリフ回しが特徴であり、文学的ともいえる「詩的リアリズム」とは一線を画し、ロケ撮影が多く、セリフに頼らずむしろ俳優の身体性を強調したようなところがあります。ですから、「ヴィゴの詩的リアリズム」というのであれば、映画史における一般的「詩的リアリズム」とは異なる、ヴィゴ独特の「詩的リアリズム」だと言う必要があるでしょう。そのあたり、レポートにする場合にもう一度考えてみてください。
 

カーアン&ムルナウ&エイゼンシュテイン

 投稿者:谷 昌親  投稿日:2011年 6月27日(月)17時04分26秒
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   吉川さん、村里さん、大江君、発表お疲れさまでした。感想をごく簡単に書いておきます。

 まず、吉川さんの「クロード・カーアンとセルフポートレート」について。クロード・カーアンはあまり有名とはいえない人なので、配った図版から彼女の写真だとわかるまでが大変だったかもしれません。この前のシュルレアリスム展でもカーアンの写真は何点か展示されていましたが、必ずしも彼女の本領を示すものではなかったように思います。その点、今回の発表ではセルフポートレートにテーマを絞ってくれたので、カーアンがどういう人で、どういった写真を撮ったかということがわかりやすかったのではないかと思います。森村泰昌やシンディ・シャーマンと較べてくれたのもよかったですが、教室でも言ったように、仮装とセルフポートレートの関係という視点も導入してくれると、さらに考えを深めることができたかもしれません。
 それにしても、こうしたセルフポートレートのテーマは、必然的にアイデンティティの問題につながります。そうしたものはシュルレアリスムとあまり関係ないと思っている人もいるかもしれませんが、たとえばブルトンの『ナジャ』を読めばわかるとおり、シュルレアリスムにとってもアイデンティティの問題は重要です。ただそれを、通常とはやや異なる仕方で取り扱うということでしょうか。

 次に、村里さんの「F・W・MURNAU 幻想と狂気」について。ムルナウの「吸血鬼ノスフェラトゥ」、そして表現主義に関してて、いろいろと調べてくれたのはよかったと思います。ムルナウも、一般にはあまり有名な映画人ではないように思いますので、今回、はじめて名前を聞いた人がいるかもしれません。そういう人にとっては、非常によい入門篇となったでしょう。発表にタイトルが出てきた『最後の人』や『サンライズ』もすぐれた作品なので、機会があったら観てもらいたいものです。
 発表に「表現主義」や「1920年代のドイツ映画」についての説明を入れてくれたこと自体は、聞いている人にとってはむしろ親切だったと思いますが、その一方、どこまでがムルナウや『ノスフェラトゥ』の特徴なのかはっきりしなくなった部分があったように感じます。ごくおおざっぱにその時代の映画の特徴などをあげて、それとの関係でムルナウ作品について論じたほうが、わかりやすかったかもしれません。表現主義は、シュルレアリスムよりも少し前の時代ですし、地域的にもドイツが中心となりますが、夢や狂気を重視した点ではつながってきます(ただ、その夢や狂気をあくまで主観の問題とするか、それともある意味で客観化するか、の違いはありますが)。『ノスフェラトゥ』は、そうした表現主義の特徴を示しつつ、独特の作品でもあります。発表では、そうした『ノスフェラトゥ』独自の特徴にもしっかりとふれてくれたのですが、表現主義や当時のドイツ映画の話との関係があり、さらに、箇条書風に特徴を並べたこともあって、焦点がぼやけた感じがあって、残念でした。

 最後に、大江君の「セルゲイ・エイゼンシュタイン――モンタージュ理論とシュルレアリスム」について。映画におけるモンタージュ理論と、とりわけエイゼンシュテインにとってのモンタージュを的確にまとめてくれました。エイゼンシュテインのモンタージュとシュルレアリスムのコラージュを比較するという視点もよかったと思います。ただ、もちろん準備にどれだけ時間をかけられるかの問題もありますが、エイゼンシュテイン自身がモンタージュ理論についての文章を書いているので、彼自身がどのように考え、言っているのかといったことも、少しは調べてもらいたかった気がします。それとも関連しますが、エイゼンシュテインの言うアトラクションのモンタージュが実際にはどのようなものなのか、もう少し言ってもらえるとさらによかったでしょうね。『戦艦ポチョムキン』にもそれは当然ながら見てとれるはずです。
 それから、これは細かいことですが、結論でいきなり現代からの視点が入るのは、やや違和感があります。当然ながらエイゼンシュテインは、映像が氾濫しているのでアトラクションのモンタージュを考えたというわけではありません。どうしてエイゼンシュテインがそうしたモンタージュを考えたのかということと、現代からの視点はやや別のことになるので、もちろん現代から見てこうだということを入れてもいいのですが、入れ方を考えたほうがいいかもしれません。
 エイゼンシュテインは、おそらくムルナウよりは有名だと思いますが、実際に作品を観たことのある人がどれだけいるでしょうか。やはりエイゼンシュテインの場合も、作品そのものを観てもらいたいですね。
 

オートマティスム&ケルテス&デュシャン

 投稿者:谷 昌親  投稿日:2011年 6月20日(月)23時22分17秒
返信・引用
   田那部さん、三原さん、中井さん、発表お疲れさまでした。教室でも、結局、発表者以外でなにか考えを述べたのはぼくだけでしたので、ここではごく簡単に感想を書いておきます。できれば、誰かほかの人にもっと書き込んでほしいのですが……。

 まず田那部さんの「シュルレアリスムにおけるオートマティスム美術・文学」について。オートマティスムの問題を美術と文学で比較するというテーマは意欲的で興味深いものでした。また、シュルレアリスムの画家を二つのグループに分けた上で、その二つのグループとの関係で文学のオートマティスムについて考えるという発想もおもしろかったと思います。ただ、なかなか資料が見つからなかったのだろうとは思いますが、マッソンやオートマティスムについて、もう少し調べてもらえたらと思いました。ブルトンやマッソンがオートマティスムについて書いたり語ったりした文章、あるいは研究者などがオートマティスムについて書いている文章、そうしたものをなんとか探しだし、少しでも読んだうえで、自分の理論を構築すれば、もっと説得力のある発表になったのではないかと思います。

 次に、三原さんの「アンドレ・ケルテス――無意識の世界」について。ケルテスに関しても、日本語で読める文献はきわめてかぎられているので、なかなか準備が大変だったかもしれませんが、読めるものは読み、ケルテスの写真もよく見たうえで、発表に臨んでくれたと思います。そして、調べたことをもとに自分なりの考えを組み立ててくれたのですが、最後の部分、つまり、ケルテスの「想像の世界」というのが何なのか、もう少し考えを深めてもらいたいですね。今回の発表のなかでは、構図の問題と歪みの問題が出ていましたから、その二つをつないでみることでケルテスの「想像の世界」に迫るヒントが出てこないか、という気がします。もちろん、これはなかなかむずかしいことですが、「想像の世界」という説明で終わってしまうといかにも抽象的ですし、おそらくここで止まっていては、三原さん自身も本当の意味でケルテスについての考えを深めたということにならないはずです。なかなか大変だとは思いますが、もう一歩踏み込んでみてください。

 最後に中井さんの「『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』とシュルレアリスム」について。マルセル・デュシャン、とりわけこの通称『大ガラス』については、今度は文献がいろいろありすぎて、どれを読んでいいか迷う部分があったかもしれません。しかも、デュシャンという人は自身も思索的なことを書くので、彼や彼の作品について考えるのはひと苦労でしょう。しかし、授業でも言ったように、デュシャンは現代芸術におおきな影響を残している人ですから、この苦労を乗り越えると、現代芸術について考えるための展望までが広がってくるはずです。中井さんは、特に「機械」という視点からデュシャンや『大ガラス』について考えてくれましたが、これは大事な視点です。ただ中井さんの場合も、機械という鍵を発見するところまでは行っても、その鍵がどういう扉を開き、その扉の向こうに何があるのか、というところまでは行けていないようです。鍵だけがあれば扉が開くというものでもないので、それほどたやすいことではないのですが、何度か鍵を回しているうちに、かすかでも扉が開いたりすると思います。なんとかそこまで頑張ってもらいたいものです。
 

ベルメール&デルヴォー&キートン

 投稿者:谷 昌親  投稿日:2011年 6月14日(火)12時14分2秒
返信・引用
   ようやく皆さんの発表がはじまりました。授業中は時間がかぎられているので、せっかくの発表について、この掲示板でも意見交換などをできればと思っています。というわけで、誰か投稿してくれないかと待っていたのですが、なかなかむずかしいでしょうか。簡単でかまわないので、感じたこと、疑問に思ったことなどを、もちろん授業中でもいいのですが、言ってくれると、発表者には参考になると思います。

 さて、宮野君、島田さん、清水君、発表お疲れさまでした。発表の初回ということで、やりにくい面もあったと思いますが、それぞれ充実した内容になっていました。感じたことなどはだいたい授業のときに言ってあるのですが、多少の補足もしつつ、感想めいたものを書いておきます。

 最初に、宮野君の「写真家ベルメールと解体する身体、シュルレアリスム」。パワーポイントを使っての発表であったこと、序論、本論、結論という構成をしっかり作り、本論も3つの論点に分けておこなったことなど、発表としては非常にきれいにまとまっていましたし、聴きやすいものになっていました。
 課題としては、教室でも言ったように、本論の3つの論点を結論でつなげてやることができると、さらによくなるでしょうし、そのことで、宮野君の考えるベルメール像のようなものがより鮮明になると思います。それから、これは発表時間が限られているなかではむずかしかったかもしれませんが、もう少しベルメールの写真をいくつか見せてくれると、写真によって「日常生活の『薄気味悪さ』を暴露」しているという面が理解しやすくなったと思います。

 次に、島田さんの「ポール・デルヴォーの女性像――記憶と創造の都市」について。ただ対象について説明したり分析したりするということではなく、島田さんのデルヴォーにたいする関心のあり方がはっきりと出ていて、聴いていて気持のいい発表でした。おそらく、はじめてデルヴォーの絵を見た人も、興味を抱いたのではないでしょうか。
 デルヴォーにおける女性像と都市の背景のようなものがはっきりして、あの神秘的ともいえる絵の秘密が少しわかったような気がします。『眠れるヴィーナス』へのこだわりについての言及もおもしろいと思いました。ただ、デルヴォーの絵画から女性と都市という要素を取り出して論じてくれたことは非常によかったのですが、そうした要素をもう一度絵のなかに戻して、デルヴォーの絵を全体として論じるようなことを最後にしてくれると、デルヴォー論としてはさらに深まったと思います。もちろん、時間の問題もあるので、なかなかむずかいしのですが。

 最後に、清水君の『Buster Keaton』について。発表の三人目ということで、時間もやや足りなくなっていて、割愛した部分もあったようで、その点は気の毒だったのですが、キートンについて簡潔に紹介する一方で、シュルレアリストたちがキートンのどこに魅かれたのかということで、「悪夢」「アナーキー」「不服従」といった側面の指摘をしてくれたので、ひとつのキートン像が明確に出されていましたし、この授業とのつながりもはっきりしたと思います。
 キートンの身体性というか、その運動能力の高さや体を張った演技を強調してくれたこともよかったのですが(キートンについて語るなら、やはりそこは抜かしてもらいたくない点ですから)、それを「シュルレアリストたちに愛されたキートン」という観点に関連づけられると、全体としてのまとまりがもっとよくなり、結論もはっきり提示できたのではないかと思います。
 

Re: 『アンダルシアの犬』について

 投稿者:谷 昌親  投稿日:2011年 6月 6日(月)16時46分9秒
返信・引用
  > No.9[元記事へ]

三瓶さん、書きこみありがとう。

全部がわかっているわけではありませんが、冒頭の眼を切るシーンはブニュエルの夢、手に蟻がたかったり、ピアノに騾馬の死体が乗ったりしているのはダリの夢、ということのようですね。
たしかに、あまり友だちにはなりたくないかもしれませんね。

撮影や編集が意識的におこなわれているという指摘はそのとおりです。この場合にかぎらず、作品制作が完全に無意識のなかでおこなわれるという例は、むしろ稀でしょう。ただ、意識的に作業していても、当初予定していなかった結果になれば、そこに無意識的なものが紛れ込んでいるということにもなるでしょうし、もともと夢を素材にしているなら、夢の持つ非合理性を整合化しないことで、夢が含んでいた無意識的な要素を保つということになるように思います。

 

『アンダルシアの犬』について

 投稿者:三瓶  投稿日:2011年 6月 4日(土)00時53分45秒
返信・引用
  私たちのグループで出た意見をまとめると、
・どこまでがブニュエルの夢で、どこまでがダリの夢なのか
・無意識な夢の状態を映画作品として昇華させる過程では、非常に意識的に撮影や編集が行われている。結果的に生まれたものは無意識で不合理だが、その製作過程はとても緻密で計算的である。いわば無意識を意識している状態。シュルレアリスムとはそういうものなのか。
・全体的に意味がわからない(それが狙いだと思われるが)ので、音楽がないともたない。ただのホラーになってしまう(シュルレアリスム展でこれが上映されたときは音楽はついていなかったらしい)。
という感じでした。
こんな夢を見るなんて、若干友達になりたくない感じです。
 

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